2016.9.15 吉田俊哉会長挨拶

皆さん、今日も例会出席ありがとうございます。

今日は「重いテーマ」を取り上げてみます。

今、リオはパラリンピックの最中で、各種競技で日本代表の各選手も奮闘してくれていますが、この大会についての報道や論評で少し気になる、というか違和感を感じる場合があります。

それは、「障碍を克服して頑張っている姿」が強調されるときです。

本来、スポーツ選手が健闘している姿を称賛するのは「精一杯頑張っている」から、または「素晴らしい成績」をあげたから、だと思います。

パラリンピックの各競技は「障碍」を抱える人たちが「障碍が妨げにならないように」プレーできるように設定されているものです。

だから、そういう競技の選手に対して「障碍を克服して」を称賛のポイントにするかのような言い方は、ピント外れではないかと感じるのです。

シンプルに「頑張っているから称賛する」で充分なのではないか、と。

また、少し前にあった凄惨な「相模原の連続殺傷事件」の報道のときも、違和感を感じる論評が見られました。

犯人は「社会の役に立たない者は、生きている価値がない」という信念の元に、恐るべき犯罪を実行しました。

この考え方を否定するために、こういう言い方をする向きがあります。いわく「重度心身障碍者といえども、何かの役をはたしている大事な存在だ」と。

その通りだと思う人が多いでしょう。個別的に家族の生き甲斐になったり、笑顔が周囲に癒しを届けたり、充分に「役目」を果たしている障碍者も多いでしょう。これを言う方は「社会的役割」についての犯人の偏狭な捉え方を否定するために、そのような論じ方をするのでしょう。心情には同感できます。また「役割というもの」は人間には定義不能なもので、神仏の世界にあるものだ、

というところまで突き詰めるのであれば、論理も成立するでしょう。

しかしそれを、人間の生活感覚のレベルで、犯人の唾棄すべき思想を批判するためのポイントにするのは、危ないと思いました。何故なら「役目を果たしている大事な存在」だから生きている価値があるというのは、犯人の思想の裏返しになるからです。

「役割があるから生きる価値がある」というのは「役割が無ければ生きる価値がない」という論理に容易に変換できます。

つまり、弱者を支援し負担を分かち合おうとするのに「大事な存在だから」と条件を付けるのは、過ちを生む可能性があると思うのです。

スポーツ選手を称賛するのに「ハンディを克服したから」という余計なことを付け加えるのも同質の誤りでしょう。

何か良いことをしようとするときに、何らかの条件を付けるのが、そもそも道を誤る可能性を生むのだろうと想い至りました。

「弱者に支援するとき」「頑張った人を称賛するとき」我々が陥りがちな「……だから」というのを止めてみましょう。

条件は「支援を受ける側」「称賛を受ける側」ではなく、何かを与えようとする側にのみ存在します。「これしかしてあげられないけど」「拍手を送るしかできないけど」そういう送り手側の限界をきちんと自覚することは重要でしょう。

受ける側を選別するための条件を何も置かずに「誰かのために、良いこと」を何かやりましょう。

それがロータリアンの「奉仕の心」の本質だと思います。

重苦しい話題を、ご清聴ありがとうございました。

2016-2017年度会長 吉田 俊哉